08 Mar. 2017

中国の名君 光武帝


k.mitiko 

 

中国4000年の歴史で唯一の女帝、「武即天」を描いたドラマを観て、

そのドラマに登場した、唐の太宗の名君ぶりに、中国の歴史上の人物で

名君と言われた人物に興味が湧き、色々と調べてみました。

 

 

後漢の光武帝、唐の太宗、宋の太祖、清の聖祖の四人が神の四と言われて

いることがわかり、宋の太祖だけは知りませんでしたが、後の3人は名前や、

その治世を知っている人物のなかで、私が興味を持ったのは光武帝でした。

 

 

後漢(中国では東漢)王朝を開いた光武帝劉秀(こうぶてい りゅうしゅう)は

戦が上手で、性格が温和で治世も安定。なによりも若いころの発言「仕官する

なら執金吾(しつきんご)、妻を娶らば陰麗華(いんれいか)」(官途につく

なら都の警備を担当する長官になりたい。妻を娶るなら美人の陰麗華を得たい)に、

時代を超えた若者の夢を語る2000年前の人物に惹かれました。

 

 

紀元前206年にそれまでの秦王朝を倒した劉邦は漢王朝を開きましたが、

200年後の紀元前8年に、重臣の王莽(おうもう)によって乗っ取られて

滅びてしまいました。王朝を乗っ取った王莽があまりにも現実を無視した

政治を行ったために、たちまち民心が離反して各地に反乱が起こりました。

 

 

この反乱に劉秀の兄、劉?(りゅうえん)が立ち上がり、劉秀も兄に従って

反乱軍に加わることになりました。それまでの劉秀は、物静かで生真面目、

慎重な性格で、地元で農業に勢をだすという目立たない人物のようだった

ようです。

 

 

そのころの劉秀は「恰好いい制服の役人になって、陰麗華のような美人と

結婚できたらいいだろうな」というありふれた夢を語る若者で、秦の始皇帝を

目にして「あいつに取って代わってやる」と言った項羽や、「男子たるもの、

ああなりたいものだ」と言ったという劉秀のご先祖様の劉邦にくらべると、

志のレベルがぐっと低い状態でした。

 

 

「いつか皇帝になってやる」とは露ほども考えていなかったようで、反乱軍に

身を投じたのも兄が行くからこれに従ったという感じで、これで一旗挙げようと

いう野望は感じられませんでした。

 

 

 

後に皇帝の座に着いてから故郷に帰った際にも、地元の老婆達から「若い

頃は真面目一方で、遊ぶことも知らなかった文叔(劉秀の字)が皇帝様に

なるとは、びっくりだね」とからかわれて苦笑いしていたとか。周囲の人も

劉秀のことを皇帝になるような人物とは見ていなかったようです。

 

 

 

当初は周囲もそんなに期待していたとは思えない劉秀でしたが、いざ戦をし
てみると無類に強く、常に部隊の先頭に立って指揮を執り、そして部隊を
勝利に導きました。志は低くとも能力は抜群でした。
 
 
 
戦いが終わると、投降してきた敵軍の将兵の扱いは寛大で、まるで元々の自分
の部下だったように誠意をもって扱うため、昨日までの敵もあっという間に

劉秀に心服して、次の戦いでは強力な戦力となったそうです。そして気がつけ

ば劉秀は群雄割拠の戦乱の時代を勝ち抜いて、まわりに押されて皇帝になり、

後漢王朝を開きました。

 

 

帝位について政治をしてみても、生来の生真面目さと勤勉を発揮して民生の

安定に心を砕き、豊かな国造りに成功し、中国の長い歴史の中でも屈指の

名君と呼ばれるほどの実績をあげました。

 

 

 

「仕官するなら執金吾」については都の警備の長官どころか、皇帝にまでなって

しまったので夢はかないました。もう一つの夢「妻を娶らば陰麗華」については、

劉秀の憧れた陰麗華は、美人であっただけでなく大変聡明な女性であり、

劉秀と結ばれて皇后の地位についても質素な生活を続け、自分の一族の政治

参加を許さないことで、外戚による政治の乱れを未然に防ぎ、後漢初期の政治

を安定させ、中国の歴史上屈指の賢皇后とされています。

 

 

後漢王朝を開いた光武帝は

    租税を安くする

    徴兵や国家事業への徴用などで民力を消耗させない

    奴婢の開放令などの「人道的」な政策

*奴婢と良民の刑法上の差別の撤廃などの政策を

2000年前に実施した光武帝は名君と言えるのではないでしょうか。

 

 

即位後に親戚から「劉秀は人付き合いが下手で柔和なだけの男であったが、

今や立派な皇帝だ」と言われ、苦笑しながら「私の治世も柔和を旨として

行いたい」と言っていて、この言葉通りの治世を行っていきました。

 

 

挙兵からあっという間も皇帝になって、漢王朝を復活させて、中国を統一して

王朝繁栄の基盤を築き、戦いは先陣を切って勝利し、皇帝になっても権力に

溺れたり臣下を粛清したりせす、皆に慕われる人格者の光武帝。妻に中国史上

で最も優れた皇后をめとり、中国の皇帝とは思えないような完璧ぶりには

驚かされました。

 

作家の宮城谷昌光さんは「劉秀ほど大きな寛容を持った皇帝は空前絶後」で

その驚きを小説に書いたと言っています。

志賀島で発見された金印は光武帝から当時の倭国(日本)に下賜されたものです。
当時の日本は弥生時代でした。
 
 
参考資料     「草原の風」  宮城谷昌光
 
画像       インターネットから引用しました。