26 June 2016

2016年5月連休の旅(6)壇上伽藍(だんじょうがらん)

T.H.

金剛峯寺を出て通りを歩くと、立派な石垣付きの鐘楼がありました。
これは豊臣方の武将、福島政則(1561〜1624)が
父母の菩提を弔って1618年に建てたもので、6時の鐘という名が付いています。
現在でも6:00から22:00までの偶数時に時を知らせています。





壇上伽藍へ続く細い蛇腹道(じゃばらみち)が左に見えてきました。





「大伽藍」の看板があり、美しい植え込みをたどります。





壇上伽藍の東の入口です。
多様な堂塔がずらっと並んで、ちょっと展示場のような
楽しさと期待感も。






高野山は標高800mにある、東西6km南北3kmの平坦な盆地で
周囲を1000m 級の山々に囲まれています。
その中心となるのは大師が入定した奥の院と、この壇上伽藍です。

816年、弘法大師 空海は
高野山を真言密教の道場にする構想を実現するため
嵯峨天皇から勅許を得て
建設に着手しましたが、創案のすべての伽藍が完成したのは
空海の死後53年経った887年でした。

その後幾度となく落雷などによる火災に遭い、
開創当時の堂塔は今日では存在していませんが
絶え間なく続けられた再建の努力により
密教の世界観に基づく伽藍配置が伝えられています。

それでは空海が開山後最初に整備したという壇上伽藍を見てみましょう。
下図は伽藍配置図です。






《 御社(みやしろ)重要文化財 819年創建 》
《 山王院 1171年創建 》


空海は高野山の開山にあたり
日本の在来の神々と、密教との融和をはかるため
高野山の守護神として、山麓にある丹生都比売(にうつひめ)神社
丹生明神高野(狩場)明神
壇上伽藍の西端の御社に祀りました。
これは日本の神仏習合への流れのひとつとなりました。

林の一角に狛犬に守られた鳥居がありました。





御社の拝殿の《 山王院 》です。1171年頃に建立されました。
現在の建物は1845年の再建です。
改修工事中でしたので部分的な画像になりました。




神社にもしっくりくる建物です。





《 御社》です。
正面の鳥居の向こうに空海の勧請によって819年に建てられた
丹生明神社高野明神社総社の3つの社(重要文化財)が木立に囲まれています。
現在の社殿は1522年の再建です。






御社は壇上伽藍の一段高い場所に祀られており、
現在も重要な宗教的行事が行われています。





丹生都比売神社と高野山は空海の開創当時から、
徒歩5時間ほどの高野山町石道(参考画像)で結ばれ
深い関わりを保って来ました。





言い伝えによれば、開山の地を求めて各地を旅していた空海は
ある日山の中で、猟師姿をした高野(狩場)明神に出会い、
伴われていた猟犬の道案内で高野山の地へ導かれ
現れた女神の丹生明神から神領を譲られたということです。
「高野大師行状図画」参考画像





下図は丹生明神(左)と、高野(狩場)明神(右)とを描いたものです。
(重要文化財 金剛峰寺蔵 参考画像)





歴史的には、丹生神社の起源は1700年前といわれ、
古くから朱や水銀の原料である辰砂(硫化水銀の赤い鉱石)を産出する土地の守り神で、
和歌山や奈良を中心に広く分布していました。

朱は丹(に)とも呼ばれ、寺社の堂塔を赤く塗装する顔料として用いられ
水銀は金を精錬する際に使用されました。

その後辰砂は高野山の寺領でも採掘が行われ、
建設の貴重な資材や財源となっていたとも伝わっています。



《三鈷の松》

丹生、高野の両明神より高野山の地を贈られた空海は
伽藍の建設に着手しますが、
大工たちが夜な夜な光る木があって恐れていることを知らされます。
見るとその木の枝に、空海が2年の留学を終えて帰る時
唐の海辺から将来日本で密教を開く場所に届くよう投げた
三鈷(さんこ 参考画像)と呼ばれる法具が、
引っ掛かっていたという言い伝えがあります。

三鈷



下図は空海が投げた三鈷が雲に乗って日本へ飛んで行く場面です。(参考画像)




このことが空海に高野山が開山に最適地であることを
確信させたということです。

三鈷の松」は現在も壇上伽藍の赤い柵の中に
御影堂、根本大塔、金堂に囲まれるように立っています。






《 中門  819年創建

こちらは壇上伽藍の正面入口の中門です
初期は鳥居の形でしたがその後楼門になりました。
819年の創建以来焼失を繰り返し、
1843年の火災以降は172年間建造されませんでしたが
高野山開創1200年を記念して、2015年に再建されました。





中門には4体の四天王像が安置されています。
正面の多聞天(左)と持国天(右)( 参考画像 )は1141年に造られたもので
1843年の火災では焼失を免れていました。


 



門の裏側には新しく造られた広目天(左)と増長天(右)(参考画像)が安置されています。


 



中門は伝統的な様式・工法を今も受け継ぐ
高野山の宮大工の方々が中心となり
残されていた礎石の上に高野杉を用いて建てられたということです。






《 金堂 819年創建 

金堂は御社に次ぐ早い時期(819年)に建立され
当初は僧侶が一同に集まって修行を行う講堂として用いられました。
現在の金堂は8代目で1932年に再建された、耐震耐火の鉄筋コンクリート構造です。

中門から見た金堂です。





金堂です。
高野山全体の総本堂として、年中行事の大半がここで行なわれます。





こちらは幕末1860年に再建された先代の金堂で
明治36年(1903年)頃撮影されたものです。(参考画像)
驚きの壮麗さですね。
残念ながら1926年に焼失しました。





金堂内部は撮影禁止でしたので参考画像です。





金堂の本尊をはじめ脇侍は1926年の火災により金堂と共に焼失し
1932年の再建時に高村光雲により阿閦(あしゅく)如来が造立されました。
以来中央の大きな厨子の中で絶対秘仏として安置されて来ましたが
2015年の高野山開創1200年記念として
83年ぶりに開帳されました。参考画像





また内陣の左右には平清盛が奉納した両界曼荼羅の真新しいレプリカがかけられています。
この両界曼荼羅は金剛曼荼羅(左)と胎蔵曼荼羅(右)の対になっており
胎蔵曼荼羅には
平清盛が自らの額を割って流れた血で
大日如来の宝冠を描かせたことから
通称
「血曼荼羅」(重要文化財 金剛峯寺蔵)
と呼ばれています。
下図は血曼荼羅の大日如来の部分です。参考画像






《 根本大塔(こんぽんだいとう)887年創建 

金堂の斜め後方、壇上伽藍の中央に建つ巨大な朱塗りの根本大塔は、
空海が真言密教の根本道場として建設した多宝塔(1階が方形で2階が円形)
高さ約16丈(48.5m)と、高野山では最大の高さを誇っています。

しかしあまりにも巨大な建物だったため、
工事は空海と甥の第2世真然の二代にわたり、
816年から入定後の887年までの、70年の歳月がかかりました。。









その後落雷や火災で5回焼失し
1843年の焼失以後は再建されていませんでしたが
弘法大師入定1100年を記念して、鉄筋コンクリート構造で
1937年(昭和12年)に94年ぶりに再建されました。

下図は当時の建設中の根本大塔の絵葉書です。参考画像









こちらの屏風絵「高野山水屏風絵」(重要文化財)は鎌倉時代中期の景観とされ
高野山の堂塔を描く最も古い絵図と云われています。参考画像





こちらは鎌倉時代後期の「国宝一遍上人絵伝に描かれた根本大塔です。
両者は時代も近く、よく似た描かれ方ですので
鎌倉時代の根本大塔をかなり正確に表しているのではないでしょうか。
それほど巨大には見えませんが、当時も華やかでシンボル的な建造物だった事が想像されます。





根本大塔の内部は、黄金に輝く本尊、胎蔵大日如来金剛界4仏が囲み、
16本の柱や4隅の壁に菩薩像や密教を伝えた八祖像を配して
真言密教の宇宙観を表す「立体曼荼羅」が構成されています。
内部撮影禁止でしたので参考画像です。





初夏の真青な空に映える朱色が印象的でした。






《対面桜》

高野山には、昔、大塔近くの桜の木の下で
平清盛(1118〜1181)と弘法大師(774〜835)が対面?した
という伝承があり、その木を対面桜と呼んでいますが、現在はその木はありません。
今は中門の傍に植えられた桜の木の前に、説明の立札が立っています。






言い伝えによれば、平安時代の頃
平清盛は焼失した大塔の再建を命じられ、立派に任務を遂行し
落慶供養のため高野山を訪れた際、大塔近くの桜の木の元で
どこからともなく現れた老僧に会います。
老僧は「大塔建設はめでたいが、もしこの先悪行を行えば
子孫まで願いがかなうことはない」と説き、姿を消しますが
清盛は「あれは大師であったか」と気付き、大変心を動かされたとのことです。




《 御影堂(みえどう)

大塔の西隣に建つ御影堂は、空海在世中は持仏堂として用いられていましたが
入定後に十大弟子の真如親王(799〜865桓武天皇の孫)が
生前の空海を筆写した御影をここに祀ったことからこの名が付きました。
また、堂内の外陣には十大弟子の肖像も掲げられており
壇上伽藍で最も重要な聖域とされています。

現在の建物は1847年に、紀州徳川家の寄進によって再建されたということです。
宝形造りと呼ばれる美しい正方形の屋根と
回り廊下の天井に並んで釣られた金色の灯籠が印象的でした。





真如親王が描いた弘法大師の御影のスタイルは
後世に制作された御影の原形となりました。参考画像







《 准胝(じゅんてい)973年創建 
《 孔雀堂 1199年創建 


御影堂の西隣に、《孔雀堂 左》准胝堂 右》が並んでいます。





 
右の《准胝堂》は平安時代中期973年頃の創建と考えられ
本尊の准胝観音は、
出家得度の儀式を行う際の本尊として祀られてきました。
建物は明治時代1883年に再建されたものです。
この日は公開されていませんでしたので参考画像です。






左の《孔雀堂》1199年の近畿地方の干ばつに際し、雨乞いの祈祷に成功した
東寺の僧正に対し、後鳥羽上皇から賞賜として高野山に建立されたものです。
1926年の焼失以来57年ぶりの1983年に再建されました。
本尊は快慶の傑作、孔雀明王像(重要文化財)で、現在霊宝館に収蔵されています。







《 (さか)差しの藤 

孔雀堂と准胝堂の間を入ると、奥に
高野山再興の功労者といわれる平安時代の高僧、祈親(きしん)上人ゆかりの
逆差しの藤があります。

観音像のお告げを受け1016年に高野山へ上った上人は
東寺との対立や火災によって無惨に荒廃した山内の有様を目にし、
救済を始めるにあたり、願掛けとして藤を地面へ逆さに植えたところ、
不思議なことに藤は芽を出しました。
その後、関白・藤原道長(966〜1028)をはじめ権力者の高野詣でが盛んになり
寄進も行われ、伽藍の復興も進みました。
祈親上人は弘法大師の生まれ変わりとして尊敬を集めました。

逆差しの藤の藤棚です。







《 西塔  887年創建

西塔は根本大塔に次ぐ大きさの多宝塔で、伽藍の北西隅に建立されました。
朱塗りの大塔も立派ですが、白木造りの西塔はシックな経年の美しさです。

西塔は空海の計画案である『御図記(ごずき)』に基づき、
空海の甥の第2世真然によって入定後の887年に完成されました。






当初空海は、大塔と西塔を2基1対として
大日如来の世界観を表現する案を予定していましたが
経済的理由等で、高さ27.3m、幅12mと
大塔の約半分の規模になったといわれています。

その後994年の落雷火災以後、焼失をくりかえし、
現在の塔は1834年に建てられました。
なお、建物の前に立つ1対の石灯籠は
江戸時代の和歌山の外科医、華岡青洲の寄進ということです。






大塔の本尊が胎蔵大日如来金剛界4仏であるのに対し、
西塔では金剛界大日如来胎蔵界四仏が安置されています。
この日は内部が公開されていませんでした。参考画像です。
次回は是非見たいです。







《 愛染堂 1334年創建 

根本大塔の東隣、少し階段を降りたところにある愛染堂
後醍醐天皇(1288〜1339)が建武の新政を始めた1334年に、
天下泰平と朝廷の繁栄を願って建立されたもので
本尊の愛染明王

後醍醐天皇の等身大と言われています。


現在の建物は1848年に再建されました。





この日はお堂の中で護摩が焚かれていました。
中央に恋愛の神、愛染明王が祀られています。







《 大会(だいえ)堂 1175年創建
《 三昧堂 928年創建 》

愛染堂の東隣の2つのお堂は、歌人・西行法師ゆかりの大会堂(左)と三昧堂(右)です。




左の《大会堂》の前身は1175年に鳥羽上皇の皇女五辻斎院
父帝の追善のため山内に建立したお堂で、
当時高野山に在住していた西行法師(1118〜1190)が造営の勧進や奉行を担当し
2年後に壇上伽藍への移築を勧め、蓮華乗院としたものです。

後年お堂は大会堂と名を変え、重要な法会を行う場所となりました。
現在の建物は1848年に再建されています。

下図は大会堂の本尊の阿弥陀如来です。
この日は公開されていませんでしたので参考画像です。





大会堂の東隣の《三昧堂》は金剛峯寺座主が928年に総持院に創立したもので
大会堂と同じく1177年に西行法師によって壇上伽藍に移築されました。
現在のお堂は1816年に再建されたものです。

三昧堂の本尊、金剛界大日如来です。
この日は公開されていませんでしたので参考画像です。







《西行桜》

藤原氏の名門に生まれた西行は17歳で鳥羽上皇北面の武士となりました。
歌会や流鏑馬、蹴鞠等の文武に勝れ、将来を約束されていましたが、
さまざまな人生の苦悩から
1140年に22歳で出家して妻子を残して漂白の旅に出、10年後に高野山へ向かいました。
その後は高野山を出入りしながら各地で勧進につとめ、
大会堂や三昧堂の造営や移築などの役割も担いながら、生涯歌を詠み続けました。

大会堂と三昧堂の間の桜の木は西行桜と呼ばれ、
初代の桜は西行自身で植えられたと伝えられています。






《 東塔 1127年創建 》

東塔は伽藍の東端にあり、1127年白河上皇の御願により建立されました。
1984年に鉄筋コンクリート造りで再建されました。

根本大塔によく似た多宝塔ですがずっと小ぶりで
色も朱色ではなく、小豆色に近い落ち着いた色です。





東塔の本尊、尊勝佛頂尊(そんしょうぶっちょうそん)です。 
この日は公開されていませんでしたので参考画像です。







《大塔の鐘》


金堂の東に建つ大塔の鐘は空海の発願で、第2世真然が完成させました。






現在の鐘は1547年に鋳造されたもので、
当時全国で4番目の大きさ(直径が2.12m、重量は6トン)だったことから
高野四郎の名が付けられました。
現在も1日5回、鐘の音を響かせています。参考画像







《 六角経蔵 1159年創建 

金堂の西にある白い六角経蔵は、鳥羽法皇の皇后美福門院
上皇の菩提を弔うため、1159年に建立しました。
紺紙金泥一切経(重要文化財 霊宝館蔵)を奉納すると同時に、
紀伊国の荒川荘を寄進したため荒川経蔵とも呼ばれます。
現在の建物は1934年の再建です。




紺紙金泥一切経(重文 霊宝館蔵)参考画像








《 不動堂 国宝 1198年創建 

大塔の鐘の東、少し階段を降りたところにある不動堂
鳥羽上皇皇女八条女院の御願により、
鎌倉時代前期1198年に高野山内の一心院に建立されたもので、
明治になって1908年に壇上伽藍へ移築されました。
現在の建物はその構造から鎌倉時代後期に再建されたものといわれています。






建物は桧皮葺の曲線が優雅な平安時代の邸宅風の趣があり
焼失した文化財が多い高野山において
中世の建築美を味わうことができます。

また、建物の4隅の造りをそれぞれ異なったものにすることにより
外観に変化を持たせてあるとのこと。





内部の造作も大変優美で、不動堂特有の護摩をたいた跡もなく
木組みの織り上げ天井や、現存最古の襖障子、紫檀の須弥壇など
阿弥陀堂に近い特徴をそなえています。

この日は公開されていませんでしたので参考画像です。






こちらは本尊の不動明王(重要文化財 参考画像)です。






有名な八大童子像( 運慶 国宝 )もこちらに祀られていましたが
現在は霊宝館に納められています。参考画像





それにしても壇上伽藍には鳥羽上皇ゆかりの建物が
六角経蔵、大会堂、不動堂、と3つもあるのですね。




《 蓮池 》

一応壇上伽藍を見終わったところで
不動堂の横に位置する蓮池でほっと一休みです。






朱塗りの橋は1996年に修復されました。






中島の小さなほこらは1771年の干ばつ時に造られたもので
雨を降らす善女竜王(ぜんにょりゅうおう)像が祀られています。






こちらの紀伊国名所図会は江戸時代に出版されました。
紀伊国の当時の名勝地を記した案内書で、高野山寺領についても掲載されています。
この壇上伽藍の絵図を見ると、
伽藍配置は今もほとんど変わっていません。
空海のユニークな構想が各時代を経て、伝わって来るかのようです。参考画像





一度は行ってみたいと思いながら、とても遠いところのように思え
やっと実現できた高野山の旅でした。


付記 壇上伽藍にはたくさんのお堂がありましたが、常時内部が拝観できるのは
根本大塔と金堂だけで、あとの建物はほんの限られた日や
開創1200年記念とか、特別な場合だけのようです。


御本尊の画像がサイトから拝借できそうなものは
皆様とともに拝見できればと
参考画像として紹介させていただきました。