06 June 2016

天才指揮者カルロス・クライバーの光りと影

 

                        川島道子

 

 

映像ロキュメンタリーの表示

先日、天才指揮者と言われたカルロス・クライバーのNHKでの

ドキュメント、「カルロス・クライバー無の足跡」と「アイ・アム・

ロスト・ワールド」(私はこの世に忘れ去られて)を見て衝撃を受けました。

 


クラシック音楽が好きで、カルロス・クライバーの名前は知っていましたが、

その演奏を聴いたこともなく、実像についてはほとんど知りませんでした。

 


父エーリッヒ・クライバー

父親のエーリッヒ・クライバーについては20世紀の名指揮者としての

活躍ぶりは、よく知られており、いつからともなく息子のカルロスの

天才ぶりが断片的には伝えられていました。しかしカルロスの情報が

あまりにも少なく、今までは関心をもつ機会がありませんでした。

 


この二つのドキュメンタリーを見て、その凄絶ともいえる人生に胸を

うたれました。今初めて知るカルロス・クライバーの音楽への貢献、

その生き様を、伝記やDVDCDなどのにわか勉強で知りえたカルロス・

クライバー像を少しでも伝えることが出来たらと思ってレポートに

まとめました。

 


カルロス・クライバーの父は、戦前にベルリン国立歌劇場の音楽監督を

務めた名指揮者エーリッヒ・クライバーで、カルロスは1930年ドイツで

生まれました。幼いカルロスは、ナチスの政策に反抗した父に伴われ、

ブエノスアイレスに移住。

 


 

父の多彩な演奏活動のために、言語も風土も異なる地域に転居を繰り返し、

父と行動を共にする母が不在の時は、大嫌いな子守と寄宿舎に預けられ、

過酷な子ども時代を過ごしました。こうした体験は、カルロスの生涯に

おおきな影響をおよぼしました。

 


カルロスは青年期になったとき、父に指揮者になりたいと話ましたら

「クライバーは一人で充分」と言われ、仕方なくチューリッヒの大学に

進みましたが、1年後父に再度自分の希望を伝えました。今度は父も受け入れ、

カルロスは20歳になって一から音楽を勉強しはじめました。

 


南米でのひっきりなしの転居、それとつながった孤独感、ひとりぼっちの

不安感などが青少年期のカルロスに影を落としていました。その孤独感から

文学への関心も深まり、家族は一時期カルロスは作家になるのではと

思ったほどでした。

 


彼には途方もない語学の才能と豊かな語彙があり、のちに指揮者となって

オーケストラの練習に際して、樂員たちに自分の考えを表す時に、彩り豊かな

比喩が無尽蔵に流れでてくるようになり、それはオーケストラの奏でる音色に

大きな影響を与えました。

 


カルロスは父の背中を見つめながら徒弟のようにホールの片隅でこつこつと

経験を積み上げ、まさに徒手空拳ともいえるスタイルで学んでいきました。

カルロスは父の芸術的な姿勢に感銘を受け、父に負けまいと努力し、

父と肩を並べようとしました。

 


父と子の二人は強迫観念とも言えるほど完璧主義者で、カルロスが指揮者と

して大成するようになってからはその傾向は強くなり、瞬間湯沸し器のように

いきなり怒りだすカルロスの性癖に、多くの奏者や歌手たちは並大抵でない

苦労をさせられました。

 


カルロスはどんな作曲家の作品でも、できるだけその作品に近づき、

楽譜をいくらかでもその作品にふさわしく響かせようと研究に研究を

重ねました。そのために自己疑念と失敗の不安にさらされ、その重圧に

耐えかねて時には公演をキャンセルすることがありました。

 


カルロスの修行は住みなれたアルゼンチンからスタートしました。

それはコレペティトール(略してコレペティ)という​オペラ歌手の歌の練習に
ピアノ伴奏をつける仕事で、忍耐強い下積みの仕事でしたが、カルロスは
この修行に耐えました。
 


ちなみに、​ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ヘルベルト・フォン・カラヤン、
ゲオルク・ショルティ​等の大指揮者も世に出る前にはこのコレペティを経験
しています。カルロスの才能を認識した父エーリッヒの関係もあって、活動は
大戦後のドイツのミュンヘンから始まりました。
 


 

父のエーリッヒはウイーン・フイルハーモニー管弦楽団の主席指揮者に

なりたいと熱烈な願望を抱いていました。生粋のオーストリア人である

エーリッヒは1951年にウイーンで「ばらの騎士」で客演したあと、それを

もとに伝説となったデッカの名録音盤を生むなど実績がありながら、

熱望した主席指揮者の地位につくことはできませんでした。

 


後間もないオーストリアでのナチス残党の謀略や東西ドイツの関係など

政治にウイーン樂壇が振り回された結果と言われています。

 


 恒例のウイーン大舞踏会

カルロスは1955年当時東ドイツだったポツダムで指揮デビューをして父の

目の前でスタートを切り、ウイーンのフオルクスオーパー(国立歌劇場に

次ぐ歌劇場)をはじめにザルツブルグ、ハンブルグ、などでの指揮を通して

注目され、「カルロスは原典に絶対に忠実という芸術上の志を父から受け継ぎ、

生まれながらのオペラ指揮者である」と評価されました。

 


息子のゆっくりとした足取りを見守っていた父が1956年突然チューリッヒで

亡くなり、働き盛りの66歳でした。エーリッヒの命を奪ったのは、ウイーン

国立歌劇場の指揮者になれなかったことに失望し意気阻喪したためだとという

噂が流れ、映像ドキュメントでは自殺とありましたが、確証はないようです。

 


父エーリッヒは息子に自らの手による様々な書き込みのある楽譜という計り

知れない価値のある遺産と膨大な録音を残しました。この遺産はカルロスの

指揮者活動の大きな助けになっていきました。カルロスにとって父の死は

重要な転機になり、1959年ザルツブルグでの公演での成功でその活動が

広がっていきました。

 


カルロスが総譜を徹底的に研究する入念さと集中力にはまわりの人々に強い

感銘を与え、その積み重ねは自身が徹底的に研究し尽くした曲でないと

演奏しなかったと言われていました。

 


カルロスの指揮に関して新聞や雑誌に熱狂的な批評が載り始めると、

人々の関心が広がり社会の注目を集めるようになりました。しかし父を

引き合いに出されるのを望まず、自分自身の持ち味で評価されることを

生涯望み続けました。この葛藤がカルロスの指揮活動の根底にあり続け、

そのことが陰に陽に彼の人生に影響を与えつづけました。

 


リヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」の指揮をはじめ次々と演奏活動を通して

「同世代の中で最も優れた指揮者」と言われるようになったカルロスはやがて

ザルツブルグでカカラヤンと出会い、カルロスは父とならんでカラヤンに尊敬の

念を持っていましたので、二人の間に親交が深まりました。カルロスとカラヤンを

結びつけたのは、特定の目的のために渾身の力と集中力で取り組む姿勢でした。 

 


カルロスの腰の据わった研究は彼の強い意思の表れでしたが、オーケストラとの

摩擦を起こし、カルロスの指揮にはいつも厄介な問題が起きていました。しかし

多くの場合激しい論争の結果は公演では聴衆の熱狂的な支持につながって

いきました。

 


カルロスの短気とキャンセルの性癖は年毎に強くなり、エジンバラ音楽祭での

キャンセルによるスキャンダルをはじめ、ウイーンフイルハーモニー管弦楽団と

ベートーベンの交響曲4番を練習していて第二楽章のある部分を、

クライバーがベートーベンが敬愛した女性テレーゼを意識して

「テレーゼ テレーゼ」とリズムに注意して弾く様に指示しましたが、

オーケストラは「マリー マリー」としか弾けなくてクライバーが

激怒して練習を放棄した「テレーズ事件」が起こりました。

 


プラシード・ドミンゴと

ベルリンフイルとは、カルロスの希望する楽譜の不備がきっかけで、

演奏直前にキャンセルになり、両者の関係は冷えてしまいました。

8年後、時の大統領ヴァイツゼッカーのとりなしで公演が実現し、

終演後は聴衆をはじめオーケストラ、マスコミなど熱狂的な反応が

返ってくるなど、自分の思うようにならないと演奏直前でもキャンセルを

することがたびたび起こり、キャンセル魔と言われるようになりました。

 


この頃カルロスの指揮を経験したあるチェリストは「私は初めて全身全霊で

音楽に身を捧げる指揮者を体験した。途方もない感覚と感性で持って音符に

生命を吹き込み、他の指揮者にない経験世界と新しい局面を生み出す指揮者が

いることにきづいた」と述べています。

 


カルロスの指揮のひとふりは音色を変えるといわれるほど聴衆を魅了し、

オーケストラ樂員からの尊敬を受けるようになり、多くの楽員はカルロスの

もとで演奏することを望みました。

 


「ニューイヤーコンサート」

カルロスの活動の場はひろがり、世界各地の劇場から競うように指揮の要請は

ありましたが、完璧主義者で自己主張が強く、父を尊敬しながら比較されるのを

恐れるカルロスの矛盾は、演奏する曲目の選定が狭まり、ファンの熱望にも

かかわらず演奏会の開催数も減っていき、カラヤンが「彼は冷蔵庫が空にならないと

演奏しない」と言われました。

 


「ニューイヤーコンサート」

彼の指揮は、華麗で、腕や手の動きが独特な雰囲気を醸し出し、踊るようで動きも

しなやかで、静から動への切り替えもうまく、指揮姿の流麗さはまさに音楽の化身の

ようだと言われました。カルロスのような音楽の持つ魅力を爆発させるような表現を

する指揮者は過去でも現在でもいないのではと言われています。

 


ヨーロッパ各地の歌劇場、オーケストラからの要請があってもカルロスは

中々受けず、カルロスの演奏のニュースが流れると真偽を問わず人々が

殺到しました。公演が事実であっても当日彼が舞台に立つその瞬間までは

信じられないという状況が続いていきました。カルロスはどのオーケストラとも

音楽監督や主席指揮者などの責任は負わず、終世客演指揮者を通しました。

 

 


来日公演 「ラボエーム」

カルロスは1974年の初来日の公演で好評を得、1994年5度目の来日公演

「ばらの騎士」での聴衆の熱狂ぶりは海外でも話題になるほどでした。オペラ

「ラボエーム」上演の際にはクライマックスのシーンで突如舞台裏からロバの声が

して会場を驚かせましたが、二幕に登場したロバを雨のために濡れないように

中に入れていて起きたハプニングでしたが、カルロスは怒るどころか「いやあ、今日は

思いがけない二人目のテノールの競演というおまけがついたね!」とユーモアたっぷりに

答えたというエピソードもありました。

 


「ばらの騎士」終演後の酒の樽割り

カルロスも日本が大のお気に入りになり、日本食がお好みでおしのびでの来日もしました。

 


「ばらの騎士」終演後のカーテンコール

年とともに演奏する曲目も絞られ、ファンや音楽関係者の熱望にもかかわらず演奏
回数も少なくなり、1990年代後半から消息も絶えがちで、最愛の妻を亡くした打撃
から立ち直れず、2004年妻の故郷スロベニアの別荘で亡くなりました。74歳でした。
 
34 舞台から私たちを招いているようなカルロス
 映像ドキュメントの中で、ウイーン国立歌劇場の元監督が「カルロス・クライバーは、
音楽の世界で神と人間をつなぐ完璧な仲介者だった」の発言は印象に残りました。
 

スロベニヤのお墓


天才指揮者と謳われたカルロス・クライバーは、私には宿命に生きた人物として
魅力的な存在で、こういう人物に出会えたことは幸運でした。

今あらためて
音楽の魅力を再認識しております。これからカルロスの演奏した曲を楽しんで
いきたいと思っています。
 
長文にお付き合いくださいまして有難うございました。