27 Jan. 2011

私の蕗谷虹児
 
                           川島道子
 
先日、朝刊の一面全部を使った広告に、私が子ども時代に馴染んで大好きだった蕗谷虹児の
絵が載り、今頃何故なのかと驚きました。yokoさんから「日本の民芸調を取りいれた家具や調度品
が旅館などで見受けられ、「和モダン」と言われているのでは」とお聞きして納得できました。
 
蕗谷虹児は大正時代から昭和時代にかけて竹久夢二、高畠華宵とともに一世を風靡した
挿絵画家、童画家であるとともに詩人でもありました。
 
 
私が子どものころ講談社のアンデルセンの「おやゆび姫」で蕗谷虹児の絵に初めて出会い、物語とその絵に
深い印象を受けました。
 
 
 
「すずのへいたい」や
 
 
 
 
「うぐいす」
 
 
 
 
「おやゆび姫」
 
 
 
 
美しい蕗谷虹児の挿絵とともにアンデルセンの世界を楽しみましたが、なかでも水溜りを
パンを踏んで渡ろうとした少女が沼の底に沈んでしまう「海つばめ」の物語は、子どもだった
私に生涯忘れえぬ感動を与えました。
 
この本の発行は昭和17年で、前年すでに太平洋戦争が始まっておりましたが、まだ日本は
こういう本を出せる余裕があったようです。しかしその後戦争は一気に拡大して、夢も希望も
ない時代になってしまました。
 
「うみつばめ」
 
 
 
 
 
大正時代から昭和時代まで半世紀以上の長きにわたって活動を続けた蕗谷虹児は、1898年
新潟にうまれ、12歳のときに美しかった母が27歳で亡くなり、その母への慕情が後の作風に影響
をあたえたと言われています。
「悲しき微笑」雑誌の口絵(大正13年)
 
 
 
 
 
 
 
母の死後、蕗谷虹児は商店に丁稚奉公に出され、絵の勉強をしながら夜学に通いました。
14歳のときその絵を当時の新潟市長に認められ、上京して郷土出身の日本画家に師事
して大和絵を熱心に学びました。このころ竹久夢二と出会い、影響を受けるようになりました。
「巡礼子」(大正12年)
 
 
 
 
 
竹久夢二の紹介がきっかけとなり、やがて朝日新聞の連載長編小説「海の極みまで」
(吉屋信子 大正10年)の挿絵によって、人気が爆発して各社から仕事が殺到する
ようになりました。思春期の少女の理想や憂いを表現したこのような絵は「抒情画」と
称されていました。虹児23歳でした。
「令女界」表紙(大正13年)
 
 
 
 
若くして時代の寵児になった虹児は、「挿絵画家」の生活にあきたらず、フランス留学を思い
たち、大正14年(1925)の秋、虹児26歳、妻17歳と神戸から旅たちました。
「ミュージックホールの娘達」(大正15年)
 
 
 
 
生活費にも事欠くような日々のなかで、翌年サロンナショナルに出品した作品2点が入選、昭和2年(1927)
サロンドートンヌに「混血児とその父母」が入選して、それ以後、春、秋毎回入選を果たして絶賛されました。
「混血児とその父母」
 
 
 
 
フランスの週刊誌や児童雑誌からは、絵や挿絵の注文を受ける中で、サロンドートンヌ
出品作「ベトエイユの秋」が入選して、「微妙な配色と精妙なデッサンで完全に日本を
表現している」と高い評価を受けました。
「ベトエイユの秋」
 
 
 
 
日本にのこしてきた家族の経済的破綻から帰国を余儀なくされ、とんぼ帰りの予定が
フランスに二度と戻ることができず、日本で不本意ながら挿絵画家として生きることに
なりました。わずか4年の滞在でしたが、エコールドパリの日本人画家として名を残しました。
サロン出品作品
 
 
 
 
傷心の蕗谷虹児に堀口大学をはじめ、鏑木清方、東郷清児が励ましましたが、本格的な
画家として生きる経済力も気力もなく、挿絵画家の道を歩まざるをえませんでした。
「日本女性ー春」
 
 
 
 
皮肉にも、パリ帰りの洗練された画風は人気を高め、以前にもまして花形作家となりました。
「日本女性ー秋」
 
 
 
 
当時、蕗谷虹児の画集の一つの頂点に、ヴィクターから出されたレコードジャケットの装丁がありました。
レコードジャケット
 
 
 
 
当時の虹児ファンたちは、「幼年倶楽部」からスタートして「少女倶楽部」で育ち、よりお洒落な
「少女の友」にうつり、結婚までは「令女界」を愛読するというのがパターンとなっていました。
「令女界」表紙
 
 
 
昭和12年(1937)に日中戦争が勃発し、やがて第二次世界大戦へと時代は戦時色に
染まっていきました。
少女雑誌口絵
 
 
 
 
軍当局から「柳腰の女はよろしくない」と非難されて、虹児も他の画家たちも
仕方なしにモンペ姿の女性を描くようになりました。
 
このころ講談社の世界名作童話全集のために「おやゆび姫」や「船乗りシンドバッド」
の挿絵が描かれました。私の子ども時代を楽しませてくれたのはこれらの本でした。
「船乗りシンドバッドの冒険」
 
 
 
「アリババと7人の盗賊」
 
 
 
 
 
 
戦争が終わり、再刊された「令女界」にふたたび虹児の絵が表紙を飾るようになりました。
「令女界」表紙
 
 
 
 
 
 
「令女界」にとどまらず、やはり再刊された「少女クラブ」や「少女の友」、新しく発刊された「ひまわり」
などに活動の場を広げていきました。
「越後獅子」
 
 
 
 
「美登里」
 
 
 
 
やはり再刊された世界名作童話全集の挿絵も描いていきました。
「雪の女王」
 
 
 
 
 
少女雑誌がいっせいにに漫画化される中で、虹児の出番がなくなり絵本を描くようになりました。
 
「孫悟空」
 
 
 
小学館や講談社の絵本の表紙
 
 
 
 
いつか大作を画く、これは虹児の悲願でした。閉め切りに追われて描く生活に慣れた虹児は、その夢を
なかなか実現することができませんでしたが、そんな虹児をあたたかく励まし続け、相談に載った理解者が
何人もいました。
 
堀口大学、向井潤吉、後輩では中原淳一、谷内六郎、それに野間省一(講談社)津田亮一(東京新聞)
石堂平也(新潟日報)山添直(小田急電鉄)などの人々でした。
 
「薔薇と少女」個展出品作品
 
 
 
 
詩人でもあった虹児が大正13年に発表した花嫁人形の歌詞は、若くして死んだ美し母の面影が反映
されていて、後に曲がつけられて多くの人々に歌われました。

「花嫁」
 
 
 
 
本格的な画家を志ながら、経済的な理由から挿絵画家、童画家として苦闘した虹児にも
穏やかな晩年が訪れ、数々の個展を通して画業の集大成を世に披露しました。
若くして亡くなった美しい母の面影は、虹児の絵の核心として一生消えることはありませんでした。
「胡蝶の夢」個展出品作品
 
 
 
 
このレポートのためにもう忘れていた蕗谷虹児の生涯をたどったときに、私の子ども時代に大きな
夢を与えてくれた画家の活動ぶりは、戦前、戦後と生きることすら困難な時代に、自分を表現
し続けたその生き様に、あらためて感動を覚えました。
 
参考資料     蕗谷虹児展図録        朝日新聞社
           日本の童画           第一法規