24 Aug. 2010

 
雑誌「ひまわりと中原淳一」 Part−2
 
     yoko&k.mitiko 中原淳一を語る        
 
 
暦のうえでは秋を迎えましたが、厳しい暑さが衰えることはありませんね。
ひまわりの花も、まだまだ元気に咲いてくれているようです。
6月号で k.mitikoさんが、少女時代をゆたかにしてくれた雑誌「ひまわり」と
中原淳一の果たした役割についてご紹介くださいました。
 
中原淳一の言葉は、k.mitikoさんに生き方を問いかけたメッセージであり
格調高い企画、読み物、ファッション、手芸、お菓子作り、悩み相談・・・は
k.mitikoさんのみならず当時の少女たちに希望を与え、精神形成に大きな影響を
もたらしたようです。
 
レポート掲載後、伝言板に小春ママがこう記されました。
 
k.mitiko さんの教養、美意識の高さは、やはり少女時代の家庭環境に基づくものなのですね。
戦争で個人の自由が制限され、生きるのが精一杯の時代においても
いや、そんな時代体験があったからこそ「ひまわり」がもつ夢のある優雅さで洗練され、
女らしい躾の糸がきっちり掛かって、やがて美しい女性と成長してゆくのだと思いました。
 
お父さまの蔵書の数々や音楽のあふれる芸術性の高い環境。
戦前に、お父さまのフランス土産のビーズのバッグだなんて・・・・・素敵!
そのお話を伺ったときはトキメキました。
あの氷川丸の処女航海にも乗務されていたのですね。
戦前の日本だからこそ感じられたハイカラな風。それらと共に「ひまわり」が
k.mitikoさんを感性豊かに育てたのだと思うと感慨深いものがあります。

ここで、昭和32年生まれの私にとっての中原淳一、ひまわりについてお話し致します。
 
中原淳一、ひまわり、それいゆ・・・・・ちょっとずつ、どこかで私の目に触れてきたものです。
中原淳一の描く浅丘ルリ子のような女性の絵が大好きです。
元宝塚のトップスター・葦原邦子の夫としてか、中原淳一の奥様が葦原邦子なのか。
どちらの認識が先だったかは忘れましたが、大人になる前から知っていたような気がします。
 
以前、時々用があって出かけていた東京・広尾に、ある日 「それいゆ」という中原淳一グッズを
取り扱う小さなお店ができました。歩道側はガラス張りになっている明るいお店。
(画像は 2004年頃の「それいゆ」正面)
 
 
女性向けの雑誌・家庭画報の通信販売で、なんと中原淳一デザインのブラウスが
販売されているのです。何十年経とうと、そのモダンさが失われていないデザイン。
欲しいのはやまやまですが、自分の体型を鑑み・・・・・断念。
 
「きっと、さよお姉さまにはお似合いですことよ。」
「あら、ようこさん・・・・・そおっ? ほほほっ」
という会話が現実にあったわけではありませんが、かつてリワキーノさんが載せてくださった
高畠華宵の絵から、こんな会話が湧きでてまいります。
 
そして 最近読んだ本 「小さいおうち」 中島京子著の一節
 
「ミシンの使い方は、奥さまから習った。それに、まるで中原淳一みたいな細い女の子の
スタイル画を描いて、ご自分で型紙もお作りになるのだ。」
 
戦前の昭和の中産階級を舞台に描かれたこの小説。女中のタキは気働きのできる
優れた家付き女中であり、あり合わせの食材をうまくアレンジしたり、奥様の服を縫ったり。
この小説を通してさらに、当時の中原淳一の人気振りがひしひしと伝わってきたのです。
 
先日、東京・八重洲ブックセンターで「竹久夢二・中原淳一 版画グッズ展」が開かれていました。
展示されているものの写真を撮っていたところ 「著作権がまだ切れていないので、撮ってると
注意されますよ」 と指摘してくださる紳士が・・・・・その方こそ、その会場の担当者のように
見受けられましたが・・・・・残念ながらその画像はお出しできませんが、今でも、どこかで
こうして展示される機会は多いのではと思いました。
 
 
中原淳一デザインのブラウスを見つけたり、読んでいた本のなかに中原淳一がでてきたり
嬉しい偶然が重なっています。不思議な気持ち、幸せな気分・・・
好きなものや気になっているもの。 思いが強いと思ひ人のところへやってきてくれるのでしょうか。
それとも、思ひ人がそれらを引き寄せるのでしょうか。
 
k.mitikoさんのレポートで、さらに私の中原淳一への興味、思いが強くなってまいりました。
早速 別冊太陽 「美しく生きる 中原淳一 その美学と仕事」を買い求めましたが、やはり
「ひまわり」と共に歩んでこられたk.mitikoさんに、語っていただくのが一番と思いましたので
これからいろいろお尋ねしてまいります。
 
まず、中原淳一の経歴や印象に残る言葉などからお聞かせいただければ・・・・・
 
 「ジュニアそれいゆ」  1959年
 
洋子さん
 
中原淳一の展覧会があることを知ったのは、会の終了間際のテレビのお知らせでした。
すっかり忘れていた中原淳一でしたが、懐かしさのあまり予定をやりくりして駆けつけ
ました。会場でまず目に付いたのは、見慣れた中原淳一の絵とともに、要所要所に
展示されている言葉でその内容に胸をうたれました。
 
 
 白雪姫  1959年
 
   もしこの世の中に、風にゆれる「花」がなかったら、人の心は
   もっともっと、荒んでいたかもしれない。
 
   もしこの世の中に、「色」がなかったら、人々の人生観まで
   変わっていたかもしれない。
 
   もしこの世の中に、「信じる」ことがなかったら、一日として
   安心してはいられない。
 
   もしこの世の中に、「思いやり」がなかったら、淋しくて
   とても生きてはいられない。
 
   もしこの世の中に、「小鳥」が歌わなかったら、人は
   微笑むことをしらなかったかもしれない。
 
   もしこの世の中に、「音楽」がなかったら、このけわしい
   現実から逃れられる時間がなかっただろう。
 
   もしこの世の中に、「詩」がなかったら、人は美しい言葉も
   知らないままで死んでいく。
 
   もしこの世の中に、「愛する心」がなかったら、
   人間はだれもが孤独です。
 
 ポストマニ 1959年
 
多感な思春期に「ひまわり」という雑誌に出会い、知らず知らず私の中に根付き、
私の心を育ててくれたのは、この中原淳一のこの考え方、言葉を変えれば思想
だったと思います。それは忘れてしまっていたのではなく、私自身の考え方になり
きっていて生きる心情になっていたのだと今あらためて再認識をしているところです。
 
 ひまわり 1950年
 
戦後の混乱期に誰もが方向を見失いがちな時代に、次の時代を生きる少女たち
への中原淳一のメッセージの先見性は現代にも通じるものがあり、再評価される
べき人物ではないでしょうか。その多様性と多方面にわたる活動は多くの人材を育て、
ましたが、その全体像は一言では語りつくせないものを感じていましたときに、私の娘世代
でもある貴方が関心を持ってくださり、二人の語り合いを通して中原淳一というすぐれた
人物像をクローズアップできたらいいなあと思っています。中原淳一とはどのような人物だった
のかその経歴から話したいと思います。
 
 
 それいゆ 1954年
 
中原淳一の略歴
 
1913年香川県に生まれた淳一は6歳にして父を失い、兄とは13才離れていたために
遊ぶことも学ぶことも母親や姉から吸収することが多かったと言われています。幼少の時
から絵や人形など造形にすぐれ、18歳のときに趣味でつくったフランス人形が評価されて
 
1932年(昭和7年)には、初個展「中原淳一・第一回フランス・リリック人形展覧会」を
開催しました。それ以来雑誌「少女の友」の挿絵、口絵、表紙絵、付録などを手がけ
たちまちにして全国の少女たちの熱狂的な支持を集めました。
 
1940年(昭和15年)当時宝塚のトップスター(男役)だった葦原邦子と結婚。
人気者同士だったために大変な話題になりました。
 
1941年(昭和16年)の太平洋戦争の開戦とともに中原淳一の描く少女は弱々しく
て病人みたいで、国策に反すると一切の仕事は禁じられました。やがて淳一にも
召集令状がきて軍隊に入りました。1945年に戦争が終わり、軍隊より復員した淳一は
仕事に復帰しました。
 
1946年(昭和21年)ヒマワリ社(後のひまわり社)を設立し、婦人雑誌「それいゆ」を
創刊しました。
 
1947年(昭和22年)少女雑誌「ひまわり」を創刊しました。
 
1950年(昭和25年)自らが脚本、演出、装置、衣裳、美術を担当したミュージカル
「ファニー」を上演しました。
 
1954年(29年)「ジュニアそれいゆ」を創刊。
 
1959年(昭和34年)46歳で脳溢血で倒れ、その後20年間の療養生活を送る。
 
1983年(昭和58年)70歳で亡くなる。
 
 
 
 
 
 
k,mitikoさん いろいろお聞かせいただいてありがとうございます。
 
その多様性と多方面にわたる活動は多くの人材を育て、ましたが、
その全体像は一言では語りつくせないものを感じていました
 
私も中原淳一の多様性と多方面にわたる活動には目を見張りました。
まるで昭和・日本のレオナルド・ダ・ビンチではありませんか。
「美しく生きる 中原淳一 その美学と仕事」によりますと、その原点は人形だったとか。
k.mitikoさんが記された略歴にも、18歳にして初個展とあり驚きました。
次回はこのあたりを伺えればと・・・・・
                          つづく