9/6 2005掲載

ボタニカルアートの歴史

 k.mitiko

前回の「ボタニカルアート展のご案内」をまとめたことがきっかけで
「ボタニカルアートの歴史」を是非みなさんにご紹介したいと思い
まとめてみました。初めにお断りしたいのは、花の名前は解ったもの
だけ明記し他は省略させていただきました。ご存知の方がいらっしゃい
ましたら教えていただけると嬉しいです。

「ボタニカルマガジン」より
ボタニカルアートという言葉を近頃耳にするようになりましたが、
決して真新しい言葉ではありません。古代エジプトや中国などでは
薬草を見分けるために図譜が作られました。それが植物画の始まりです。
 
「ボタニカルマガジン」より
近代科学が発達する以前は薬と言えばほとんどが植物だった
ために、薬物を研究する学問を本草学と呼んでいました。
 
「ボタニカルマガジン」より
本草学では記録に残すためや植物を見分けるために細密で
正確な植物図が描かれていました。
 
「ボタニカルマガジン」より
15世紀、グーテンベルクの活字印刷の発明とともに、
それまでの版画に代わり知識が書物としてヨーロッパに
広がりはじめました。古い時代の稚拙で類型的な植物画は
ルネッサンスの自然をありのまま見つめようとする精神が
高まるにつれ、図も精密になってきました。
 
 
「ボタニカルマガジン」より
一方、美術的にもルネッサンス以後は、花や植物がそれだけで
独立した主題として取り上げられるようになり、有名なデューラーも
薬用植物を細密描写した絵を残しています。
 
「ボタニカルマガジン」より
15世紀末から16世紀前半にかけての大航海時代は、それまでの
ヨーロッパの人々にとって未知であった世界の各地から , 続々と新しい
植物がヨーロッパにもたらされました。珍奇で奇妙な見慣れぬ植物に
人々は驚きとともに関心を深めて行きました。
 
「ボタニカルマガジン」より
17世紀から18世紀のかけて薬草と言う枠をこえて植物を
見て楽しむという対象になり、王侯貴族や大商人などの間に
「園芸趣味」が定着していきました。
 
p.j.ルドウテ
17、18世紀のヨーロッパは宮廷を中心とした貴族文化の
時代でもあり、特に18世紀の絶対王政のもとでさまざまな文化と
その担い手たちの保護と育成が計られ、国王や貴族、大商人たちは
庇護者(パトロン)として多大の貢献を果たしてきました。
 
p.j.ルドウテ バラ
この時代は一方で科学の世紀とも言われ、自然科学も
この世紀に著しい発展をとげました。その発展に大きな足跡を
残した科学者のなかで、リンネをはじめ植物学の分野での成果が
ボタニカルアートにも影響を与え大流行を始めました。
新しい植民地からやって来る植物を手にした王侯貴族や大商人たちは
ただ単に自らが楽しむだけでなく、科学の発展にその植物を提供しました。
 
p.j.ルドウテ バラ
植物学者と植物画家の協力のもと18、19世紀にかけて
ボタニカルアートは発展していきますが、ボタニカルアートを
語るとき落とせないのが「花のラフアエロ」と言われたルドウテです。
マリー・アントアネットを教え、ナポレオンの皇后、ジョセフイーヌが
離婚後住んだマルメゾン宮殿のばらを描いて「ばらの画家」とも
言われました。
p.j.ルドウテ バラ
 
p.j.ルドウテ バラ
ジョセフイーヌはバラを熱狂的に愛し、マルメゾン宮殿に
多くの品種を集め、新しいバラの出現に期待を寄せ
バラ作りに励む人々をはげましました。ここに集められた
バラを描いたのがルドウテで、その集大成が「バラ図譜」に
なりました。
p.j.ルドウテ バラ
ルドウテは植物画のスタイルを改革し、銅板印刷法の改良、
芸術的植物画の普及に努めたと言われています。
植物画の質的向上に大きな役割を果たしたルドウテも
植物学者との協同があってこそのその成果でした。
 
ウオルター・フイッチ
19世紀になりますと18世紀半ばに創立されたイギリスの
王立植物園を母体にイギリスで植物画が盛んになり
18世紀末に創刊された「カーティス・ボタニカルマガジン」が
異国の珍しい美しい植物の解説と彩色画を載せて人気を
集めました。
 
ウオルター・フイッチ
「ボタニカルマガジン」を舞台に優れた植物画家が登場しました。
上記の2枚は生涯に1万点描いたと言われるウオルター・フイッチ
の作品で、このレポート冒頭の7枚の写真は「ボタニカルマガジン」
から抜粋したものです。19世紀になりますと女性の植物画家も
数多く登場してきました。
 
マーガレット・ミー
20世紀にはいりますとイギリスのマーガレット・ミーのような32年間に
15回もアマゾンに出かけ、壮大な熱帯雨林の素顔を描いた女性の
植物画家も出てきました。
 
マーガレット・ミー
 
マーガレット・ミー
原住民との友情、探し求めていた花との感動的な出会い、
そして大きく変わりゆくアマゾンの真の姿を伝えるその絵は
欧米で大反響を得たそうです。
 
「フローラルヤポニカ」(日本植物誌)より
ヨーロッパでボタニカルアートが盛んになっているのに比較して
日本はどうだったのでしょうか。わが国では古くから花鳥画の
伝統があり、植物を主題にした絵が数多く描かれてきました。
 
「フローラルヤポニカ」(日本植物誌)より ツバキ
これらは日本画的手法によるもので植物学的正確に
欠けるものがほとんどでした。日本で今日的な意味での植物画が
描かれるようになったのは江戸時代に入ってからでした。
 
「フローラルヤポニカ」(日本植物誌)キブネギク
江戸時代になりますとヨーロッパの近代植物学が導入されて
日本の植物学(本草学)も進歩し、同時に遠近法や陰影法など
ヨーロッパの絵画技術も取り入れられて植物画も写実的に描かれ
始めました。
 
「フローラルヤポニカ」(日本植物誌) クロマツ
日本に近代西洋医学を伝え、日本の近代化やヨーロッパでの日本文化
の紹介に貢献したシーボルトの来日の任務の一つが日本の植物を
ヨーロッパに移入し、その庭園を豊かなものとし、また林業の活性を図ろうと
いうことでした。シーボルトは日本の植物について来日以降ずっと大きな
関心を抱き続けていました。
 
「フローラルヤポニカ」(日本植物誌) アジサイ
その目的のため長崎絵師の川原慶賀(かわはらけいが)を見出し、
慶賀はシーボルトの要求に答えて植物の素描画を千点近く描いて
います。シーボルトの日本の植物への終生変ることなく続いた
深い関心の成果が「フローラルヤポニカ」(日本植物誌)に結実しました。
 
五百城文哉(いおきぶんさい)  シラネアオイ
明治時代に入りますと植物の研究は、本草学から植物学へ
名が変わりいよいよ盛んになり、植物画も多く描かれるように
なりました。その中で五百城文哉(いおきぶんさい)の業績は
日本における近代植物画の歴史上、忘れることのできない
重要な画家と言われています。
 
五百城文哉(いおきぶんさい)     コマクサ
日光に移り住んだ文哉が関心を持ったのは高山植物でした。
高山植物を栽培研究するとともに絵に描き、「日本高山植物
写生図」という素晴しい画帳を残しています。植物分類学の鬼才
と言われた牧野富太郎との交流もあり刺激を受けたようです。
 
五百城文哉(いおきぶんさい)  チョウノスケソウ
ヨーロッパと日本の植物画の歴史を比べてみますと、その起こり
から今日にいたるまで、その経過を見ていきますと日本での
普及発達が遅れている感があるのはやむをえないことかもしれません。
 
五百城文哉(いおきぶんさい)   カタクリ
1970年日本ボタニカルアート協会が設立され、その翌年から
印刷物でない生の植物画の展覧会「日本ボタニカルアート展」が
毎年開催されています。この展覧会によって数多くの植物画愛好家が
生まれて植物画ボタニカルアートという新しい絵画分野がわが国にも
定着しつつあるようです。
 
ボタニカルアートを描くための道具
植物画を描くには正確さが大事なためルーペやコンパス、定規が
必要になってきます。他の創造活動にも言えることですが根気と
集中力の上に芸術としてのボタニカルアートという独特の世界が
出現しました。
 
参考文献
 
  植物学と植物画     大場秀章      八坂書房
  日本植物誌 
       シーボルト「フローラ・ヤポニカ」     八坂書房
  五百城文哉の植物画              水戸市立博物館
  植物画講座       佐藤博喜      日本園芸協会