26 May 2016


2016年5月連休の旅(3)奥の院


T.H.

奥の院は高野山の東の端に位置しています。
弘法大師の御廟があり、信仰の中心となる最も重要な場所です。

奥の院のお参りは下図でいいますと
一の橋から御廟まで40分かけて参道を歩くのが正式ですが
今回は中間地点の中の橋までバスで行き、そこから残り20分を歩きました。

                            参考画像


「奥の院前」でバスを降りると巨大な石門が立っていました。
右の柱の「南無大師遍照金剛」というのは
御宝号といい、弘法大師空海に帰依するという意味だそうです。
それでは中の橋へ向かいましょう。




石畳の両側に整然と石灯籠が続きます。




和歌山県の天然記念物に指定されている大杉林に入って行きます。
樹齢は約200〜600年、
総数は約1300本、高さ50mの巨木も見られるそうです。




一の橋と御廟橋の中間にある中の橋に来ました
いよいよ参道を御廟に向かって歩きます。




参道の両側は無数の墓石や供養塔で埋め尽くされています。
その数は一の橋から御廟まで、20万基に及び
よく見ると、歴史に登場する人物や
戦国武将や江戸時代の大名家のものであったりします。

大多数の供養塔は五輪の塔ですが、
中には重要文化財に指定されている霊屋(おたまや)もありました。
目に付いたものをいくつかご紹介しましょう。



《 崇源院供養塔(2代将軍徳川秀忠正室)(1番石)県指定史跡

こちらの崇源院供養塔(1627年建立)は
2代将軍徳川秀忠の正室・崇源院江姫1573〜1626)のもので
高さ6.6mと奥の院一の高さを誇り、1番石と呼ばれています。




崇源院信長に滅ぼされた浅井長政の3女として生まれました。
小谷城落城の際、3姉妹は母のお市の方と共に秀吉に保護され、
長姉の茶々は後年秀吉の側室淀君となります。

江は3度目の結婚で2代将軍徳川秀忠(1579〜1632)の正室となり
3代家光(在任1623〜1651)の生母という輝かしい座をも得ます。
この供養塔は幼少期に両親から家光よりも寵愛されて育ったとされる
実弟の駿河大納言忠長(1606〜1634)により建立されました。


崇源院     京都養源院蔵


母の崇源院の死後、忠長と家光との関係は悪化し
父秀忠の死後1632年に蟄居、改易の処分を受け
翌々年に28歳で切腹を命じられました。

その9年後、家光は自分を養育した乳母の春日局(1579〜1643)の供養塔を
奥の院の御廟橋の向こう側の聖域内に建立しています。



ちなみに奥の院の2番石安芸浅野家藩主
浅野長晟(ながあきら)の正室で徳川家康の三女、
正清院(1580〜1617)の供養塔です。

そして3番石加賀前田家
初代藩主前田利家の長男利長(1562〜1614)のもので
参道の向かいには正室・永(織田信長の娘の立派な供養塔も立っています。



こうした巨大な供養塔を建造するために瀬戸内海の島から切り出された石は
船で紀の川を経由し、人力で高野山まで運ばれました。

江戸時代の紀伊国名所図絵には石に穴を開け、棒を通して
前後36人ずつ合計72人で
山道を引っ張り上げる様子が描かれています。


紀伊国名所図絵より 参考画像





《芭蕉の句碑》

父母のしきりにこひし雉子(きじ)の声
芭蕉(1644〜1694)の句碑もありました。





後ろから来たお坊さんたちが足早に追い越して行きました。






《法然上人供養塔》

高野山は他の宗派も受け入れています。
こちらは浄土宗を開いた 法然上人の供養塔です。
今回は見落としましたが浄土真宗の親鸞上人の供養塔もあるとのこと。






《 松平秀康及び同母霊屋(重要文化財)

2棟並んだ石廟のうち
右は松平秀康徳川家康の次男1574〜1607)のもので
長男忠直による1607年の建立です。
左はその母長勝院於万の方・築山殿の奥女中 1548〜1620)の生前に
秀康が用意して建てた(1604年)ものです。

この石廟は規模が大きいこと、全てが石材で造られている点が
技術的に高く評価されて重要文化財の指定を受け
2004年には世界遺産にも登録されています。





余談ですが、松平秀康は母の身分が低かったので
幼少より人質に出されるなど父家康には冷遇されます。
10歳で養子に行った先の羽柴秀吉に鶴松が生まれたことで、
15歳で越前結城家へ養子に出され、
関ヶ原の戦いで家康に認められ領地が加増されて67万石となり
松平の姓を与えられ越前松平家の初代藩主となりますが
1607年に33歳で父母に先立ちます。
弟の秀忠(在任1605〜1623)はその間に2代将軍の座に就きました。

早世した秀康ですが、母に用意した立派な石廟のとなりに自らの石廟も建ち
廟の出来栄えも重要文化財や世界遺産登録という結果に
喜んでいる(?)ことでしょう。



道が二つに分かれている所にひときわ大きな杉の木がありました。
足元は石畳できれいに舗装されて歩きやすく、思ったよりも疲れません。





《浅野内匠頭供養塔》

1701年に松の廊下の刃傷事件で切腹した
浅野内匠頭の供養塔がありました
左には「赤穂四十七士菩提碑處」と彫られた石碑も立っています。

この供養塔は事件の2ヶ月後、赤穂の城を明け渡す前に
大石の命令で建てられたという事です。
混乱の中で主君の供養塔を高野山に建てることを
最優先にした大石の思いが伝わってきました。






《筑前黒田家供養塔》

我らが黒田家の供養塔です
なかなか凝った造りではありませんか!






《豊臣家墓所(県指定史跡)

豊臣家の墓所へは専用の石段を登ります。




柵を巡らした広い墓所の中央が豊臣秀吉(1537〜1598)の塔
横一列に並んだ塔は、妻、母、弟夫妻、姉、長男等のものと
推定されています。

秀吉の塔は、秀吉を顕彰する団体が
1939年に京都の豊国廟の墓を模したものを建てて
今の形になったようです。





《織田信長供養塔》

参道から少し離れたこの織田信長(1534〜1582)供養塔は
江戸時代の供養塔の地図では別の目立たない場所にありましたが、
1970年にここにあることが発見されたとのことです。
子孫が移動させたのだろうということです。




高野山との関係が悪化していた織田信長は
1581年に高野攻めを開始しましたが、
戦いが膠着状態になっている時に本能寺の変(1582)が起こり
信長を失った織田軍は撤退しました。
本能寺の変がなければ、高野山は比叡山延暦寺のように
全山焼打ちに合ったかもしれません。

その後秀吉も紀州攻めを行い、抗戦していた高野山も1585年に降伏し、
滅亡を免れ寺領も安堵されました。
秀吉はその後高野山の復興に寄与したことで知られています。




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ようやく御廟橋前の広場に着きました。
橋を流れる玉川を背にして地蔵尊が並び、お札や卒塔婆を売る御供所もあります




人々は御供所で水向塔婆を求め、
水向地蔵に水をかけて先祖の冥福を祈ります。







御廟橋のかかる玉川に祀られている卒塔婆は流水灌頂といって、
亡くなった人の霊を流水で清めて供養しているそうです。
昔は玉川に橋はなかったそうで、
参拝者は川の水で身を清めてからお参りしたとか。




御茶処ではお坊さんの講話を聞きながら休憩できるようになっています。






《御廟橋》


御廟橋から御廟に至る様子は下図のようになっています。





いよいよ御廟橋です。
この橋は36枚の石板で作られており、橋全体も1枚と数えて計37枚とし、
金剛界37尊を表していると言われ、橋板の裏には梵字が刻まれています。
橋は従来木の橋でしたが、現在は石橋に架け替えられています。

弘法大師の御廟がある橋の向こう側は聖域なので
ここから先の写真撮影は禁止されています。



燈籠堂へ続く参道の右側には春日局供養塔が、

そして燈籠堂に一番近い左手奥には歴代天皇陵が有りました。





《燈籠堂》


835年に入定した弘法大師の御廟に進む前に
拝殿である燈籠堂にまずお参りします。

このお堂は弘法大師の高弟の真然が建立し
1023年に藤原道長によって現在の規模になったということです。
現在の建物は1964年の建立です。

堂内正面には1000年近く燃え続けている「消えずの火」が有り
天井には無数の金色の燈籠が吊られ、
真言宗独特の幕飾りや仏具が輝いて荘厳な雰囲気です。

下の画像は御廟橋の手前から撮った燈籠堂です。





《御廟》



弘法大師像  鎌倉時代 重文 西新井大師總持寺蔵
                 参考画像


燈籠堂の裏手に回ると
少し離れた小さな桧皮葺の山門の向こうに御廟が少し見えます。
思わず手を合わせる周囲の人々に習い、礼拝を済ませました。

戻る途中、燈籠堂の地下へ降りる階段があり、
行ってみると奥の方に、御廟の大師に最も近い距離にあるという祭壇があり
そこでも熱心なお参りが行われていました。
少しでも大師の近くに行きたいという厚い信仰心に応える配慮でした。
巡礼姿の満願の報告のお参りの人々も見かけました。





《奥院経蔵(桃山時代 重要文化財)》

奥院経蔵御廟の東に隣接した桧皮葺の小さな建物です。


             参考画像


建物正面にかかる扁額(下図)には
『この経蔵は1599年、石田三成母親の菩提を弔うために
一切経(6285帖)を寄進するに当たり造営したものである』
との趣旨が述べられています。

1600年の関ヶ原の戦いの直前にこのような寄進をしたという
石田三成の一面を知りました。

    
                         参考画像




このあと再度御廟橋を渡り中の橋まで戻ってみると
思ったより疲労も少なく
結局、残りの一の橋までの参道も歩くことになりました。
今少し、残りの供養塔巡りにお付き合いください。




《明智光秀供養塔》

こちらは明智光秀(1528〜1582)の墓所です。
怖い言い伝えがあり、
五輪の塔の丸い石に入っているヒビは怨念によるものといわれ、
これは何度取り替えても入るそうです。







《石田三成供養塔》

関ヶ原の戦いで敗戦した石田三成(1560〜1600)の供養塔も
近くにありました。








《 上杉謙信霊屋(重要文化財)》

越後の戦国大名上杉謙信(1530〜1578)は晩年、真言宗に傾倒し
高野山から阿闍梨権大僧都の位階を与えられたと言われています。

高野山にある大名の霊廟の中では比較的古く、
近世の技法を示す貴重な資料とのことです。






《 武田信玄・勝頼供養塔(県指定史跡)》

甲斐の戦国大名武田信玄(1521〜1573)と
武田勝頼(1546〜1582)の供養塔です。
武田信玄は上洛の途上で病死したため息子勝頼が家督を継ぎましたが
織田信長に滅ぼされ、武田家450年の歴史を閉じました。






《 佐竹義重霊屋(重要文化財)》

常陸の戦国大名佐竹義重(1547〜1612)の霊屋です。
1599年の建造で、画像では3本しか写っていませんが
壁を形成する塔婆形の角材が大変珍しく、重要文化財に指定されました。





相戦った戦国武将や江戸時代の大名の供養塔が
このように同じ杉林の中に鎮まっているのは
思えば大変不思議な光景でした。

奥の院の入り口の一の橋に着きました。
昔はここだけが御廟への参道の出入り口だったそうです。




御廟参りは無事終了しました。
現実とは思えないような旅をした感覚がしばらく続きましたが
ともかく人間界に戻って来ました。


ー続くー