08 Nov. 2015



東京レトロ西洋建築訪問 ②コンドルの銅像



池之端の旧岩崎邸庭園に行く前に
設計者のジョサイア・コンドル博士(1852〜1920)の銅像が
文京区本郷の東大の工学部にあるというので立ち寄ってみました。





明治45年建造の門です。





銅像は校門を入ってすぐのところにありました。

12歳で父を亡くしたコンドルは親戚の建築家の援助を受け
ロンドン大学を卒業後、ゴシック建築の権威であるウイリアム・バージェスの設計事務所に入り
腕をみがきました。
その後王立建築家協会主催の一流建築家への登竜門のソーン賞を受賞し
期待の新人として活躍を期待されます。
ところが日本政府からの突然の招聘を受け
1877年に25歳で東大工学部の前身である工部大学校 造家学科の教師として来日しました。
コンドルは若く快活で、日本文化への関心も深く、学生達に人気があったとのことです。





この銅像は大正12年(1923)、コンドルの永眠の3年後に建てられました。
地面のプレートに記されていた業績を抜粋してお伝えします。

「工部大学校造家学の教師となり最初の教え子として辰野金吾や片山東熊らを輩出」
「上野博物館、鹿鳴館、東京大学法文科校舎など、本格的な西洋建築を相次いで設計」
「88年に辞任、建築事務所を構えて設計の仕事に力を注いだ」
「わが国の建築学に確固たる出発点を与えたことは不滅の業績といえる」





銅像の台座のデザインです。
何か邪悪なものをコンドルが踏みつけているように見えますが、
どのような由来があるのでしょう。





コンドルは日本画をはじめ、茶道や華道、日舞にも熱心に励みました。
特に日本画は河鍋暁斎に師事し、「暁英」の雅号を持つ腕前で
暁斎を西洋諸国に紹介する本も書いています。


           参考画像



コンドルの描いた日本画です。暁英の雅号がみえます。


       参考画像



こちらはコンドルの家族写真です。
左はコンドルに日本舞踊を手ほどきした縁で結ばれた妻のくめ、
右は娘のエレン(1883〜1974)です。


                         参考画像



コンドルがくめと日本舞踊で共演した写真も残されています。
驚きです・・・。


              参考画像



コンドルは1904年に麻布に自宅を建てました。
翌々年にはヘレンの結婚式が東京で挙げられ
その家で親族の記念写真が撮られました。


                         参考画像



左上がコンドル夫妻です。
新郎はヘレンがベルギーで教育を受け、帰国途中の船で知り合った
デンマークの名家の御曹司だったということです。
ヘレンは日本を後にし、6人の子供に恵まれました。


                       参考画像



コンドルは「来日後すべての設計活動を日本で行い」(銅像プレート)
1920年に68年の生涯を終えました。


「最晩年のジョサイア・コンドル」白瀧幾之助筆 参考画像


参考 https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョサイア・コンドル
http://conder.exblog.jp/8260258
http://yuusuke320.blog115.fc2.com/blog-entry-2273.html


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コンドルが東大で教鞭をとりつつ設計したものの中から
惜しくも今は現存しない有名なものを2つご紹介します。


旧上野博物館 明治14年(1881)


来日して3年目の明治14年(1881)、
戊辰戦争で焼けた上野寛永寺本坊跡
28歳のコンドルの初の大作、上野博物館が竣工しました。
煉瓦造2階建のビクトリアン・ゴシックにイスラム様式を加え
正面左右にドームの屋根飾りをつけています。


                   参考画像


コンドルが描いた上野博物館の水彩画が残されています。


「上野博物館遠景之図」 J.コンドル筆  参考画像



こちらは竣工の年に会場となった第2回内国勧業博覧会の様子を描いた錦絵です。


 「上野公園内国勧業第二博覧会美術館図」 二代歌川広重筆   参考画像



下記の上野博物館の写真の左端に写っている像は
明治41年(1908)に大正天皇のご成婚を記念して建てられた
表慶館の玄関を飾る2頭のライオン像と思われます。
この建物はコンドルの教え子の片山東熊(1854〜1917)の設計によるもので
師弟の作品がここに並びました。


                                       参考画像


ところが竣工から42年後の大正12年(1923)の関東大震災で
上野博物館は下記写真の通り中央部が損壊する深刻な被害を受け使用に耐えなくなります。
この時コンドルは被害を知ることなく既に他界していました。


                         参考画像


こうしてコンドルの建てた上野博物館は役割を終え、
昭和12年(1937)に耐震耐火構造の現在の上野博物館東京国立博物館)
同じ場所に建てられました。
設計は「日本趣味を基調とする東洋式」というコンセプトで公募され
渡辺仁(1887〜1973)の案が採用されました。
渡辺はコンドルの弟子の渡辺譲(1855〜1930)の息子で、横浜のニューグランドホテル
銀座の服部時計店なども設計しています。


                                       参考画像

こちらは2014年4月に同じアングルで撮った現在の上野博物館の画像です。
因みに表慶館は関東大震災で被害を受けず、ライオン像はこうして今も健在です。


                                      2014年4月

参考 http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=150



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鹿鳴館 明治16年(1883)


当時の明治政府は不平等条約改正治外法権撤廃を外国に求めましたが
外国政府は自国民が前近代的で残酷な日本の刑罰に処せられることを危惧して強硬に反対しました。
このため日本が文明国である証としての西欧化を推し進めるため
外務卿井上馨が中心となって
外国人との文化的で華やかな社交場の設計をコンドルに依頼しました。

こうして「鹿鳴館」は現在の千代田区内幸町に明治16年(1883)に落成しました。
コンドル31歳の時のことでした。


                                 参考画像


前庭の様子です。


                                   参考画像


江戸東京博物館に展示されている鹿鳴館の模型です。


                      「鹿鳴館模型」 江戸東京博物館    参考画像




煉瓦造り2階建ての建物は
1階に大食堂、談話室、ライブラリーなどがあり
2階には3室開け放つと舞踏会場になる大広間があり
夜な夜な各国の高官を招いて、舞踏会や夫人たちよるチャリテイーバザーなどの
鹿鳴館外交」が繰り広げられました。


           錦絵「貴顕舞踏の略図」 橋本周延筆     参考画像
 



         錦絵「於鹿鳴館貴婦人慈善會之圖」橋本周延筆     参考画像



しかし外国語やマナーやダンスの習得は一朝一夕ではなかなか難しく
世間には、初対面の男女が親しく踊り、語らう西欧式の社交は不謹慎で退廃的と映りました。
さらに示された条約改正案の、外国人判事の任用という点が社会の大きな反発を招き
明治20年(1887)に井上は外務卿の辞任を余儀なくされ
鹿鳴館外交は僅か5年足らずで終わりを告げました。

鹿鳴館はその後華族会館や生命保険会社などへの売却を経て
昭和15年(1940)に取り壊されました。

参考 https://ja.wikipedia.org/wiki/鹿鳴館
    https://ja.wikipedia.org/wiki/条約改正



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コンドルは日本政府との契約を1884年に終了したのち工部大学校教師を辞職し
活躍の場を移すべく1888年に自らの設計事務所を設立して
さらに設計活動を続けていきました。

それらの建物で残っているものを見てみました。


ー続くー