23 Nov. 2015


琵琶湖周辺の旅(1)近江八幡


普通のウイークエンドも
金曜日の夕方に発てば2泊の旅になるということで
11月13日、東海道新幹線の18:33発のひかり527号で出発です。




いつもは通過するだけの米原駅で下車して・・・




JR琵琶湖線に乗り換え・・・。




夜も更けた近江八幡駅にやって来ました。




以前から憧れだった琵琶湖周辺の旅、近江八幡からスタートします。

下は駅近のホテル・ニュー・オーミのXmas ツリー。




***



翌朝の近江八幡駅です。雨はまだ降っています。




この地の歴史的な名称は八幡で、近江八幡は現在の市とJR駅の名称です
北九州の八幡に先を越されていたのでやむなく近江八幡となったとのことですが
こちらのほうが素敵な響きがありますね。

かつてここは豊臣秀吉の甥の豊臣秀次(1568〜1595)
1585年に琵琶湖のほとりの八幡山八幡城を築城し
翌年隣地の織田信長亡き後の安土から人々を移住させて築いた城下町でした。

                                     豊臣秀次       参考画像 Wikipedia



1591年に関白となった秀次は
1593年に生まれた実子豊臣秀頼を後継に望む秀吉と次第に不仲となり
遂には謀反の咎を受けて1595年に切腹して果て、八幡城は築城から10年で廃城となりますが、
城下町近江商人の町として以後発展を続けました。


平成3年、近江八幡の歴史地区は「 重要伝統的建造物群 保存地区」に指定されました。
下記の右図の赤く囲った地区の
新町筋、永原町筋、八幡堀周辺、八幡山南麓の日牟礼神社境内が主なもので
左図はそれを拡大したものです。


                                            近江八幡 重要伝統的建造物群保存地区 地図                                                            

  

 

こちらは江戸時代の八幡町の地図です。
街並みは殆ど変化していないようです。
八幡堀は当時も現在も琵琶湖につながっています。

                    「八幡町惣絵図」 参考画像




《八幡堀》

八幡堀は豊臣秀次が整備した水路で、琵琶湖に直結していたことから
物資の集散地として蔵が立ち並び、近江商人が栄える要因となりました。

商家の並ぶ通りからほど近い八幡堀にやってきました。




ここは堀端の新町浜と呼ばれる広場です。
ここで荷物の積み下ろしが行われたのでしょうか。




八幡堀はテレビや映画の時代劇のロケ地によく使われています。
最近ではNHKの朝のドラマ「あさが来た」にこの新町浜が登場しました。

                                     参考画像
  

 

遊歩道はいつもは観光客であふれるそうですが
今日は雨のおかげでこの通り無人です。




こちらは明治橋です。




再び時代劇からの参考画面












振り返ると明治橋の向こうに新町浜の階段が見えます。




前方に見えるのは白雲橋です。







白雲橋のたもとに対で立っている立派な石造りの常夜灯
時代劇の画面によく登場するようです。





                     参考画像


小舟が橋を支えているのでしょうか。




板塀の蔵も立っていました。




ここで川岸近くに立つ
「瓦ミュージアム」の個性的な建物に立ち寄りました。




再び八幡堀の光景です。




比牟礼神社の常夜灯です。ここで八幡堀が終わります。




比牟礼神社の鳥居の前にハイカラな白亜の「白雲館」が立っていました。
明治初期の1877年に近江商人の子弟の教育のために建てられた
「八幡東学校」の校舎で、近江大工・高木作右衛門によるものです。




玄関上部の唐破風や屋根の上の楼閣など、日本的な様式を取り入れている点が
1873年に松本に建てられた開智学校に似ているそうです。

                開智学校             参考画像



左右対称の堂々とした建物で、力強さを感じます。





《日牟礼八幡宮》

この神社は古くから地元にあった社で、
7世紀頃から日牟礼の名で呼び慣わされ、八幡山の山頂と麓の両方に
社を構えていましたが、秀次の自害後は麓の一箇所となり
以来近江商人の守り神として篤い信仰を集めて来ました。

比牟礼神社の鳥居です。




七五三のお参り一色の楼門です。




木々に囲まれた美しい拝殿です。
七五三の子供用のキャラクターが真ん中に・・・。






《八幡山ロープウエイ》


ロープウエイの乗り場は日牟礼神社の境内の一番奥にありました。




標高272.9mの八幡山の頂上までロープウエイで昇ります。




山頂に着きました。
ここから先は八幡山城跡を一周する遊歩道です。





10分程で西の丸跡の展望台へ着きました。
西の方角に琵琶湖の景観が広がっていました。

あいにくの雨交じりのお天気です。




下記は9月に娘がここへ来て撮った琵琶湖の画像です。ちょっと借りました。
晴れていたらこんな風だった・・・?

                    2015年9月




やがて北の丸跡に着きました。




東の方角を見ると近江八幡の街並みや、湿地帯が広がり
近江一帯に勢力を持っていた六角氏の居城があった観音寺山が連なっています。
その手前の濃い緑の小ぶりな山が安土山です。
織田信長が建てた安土城はここに建っていました

左は琵琶湖の内湖の西の湖(にしのこで、干拓されずに残った部分です。
当時安土城の周囲は一面琵琶湖の湖水に囲まれていたということです。




幻の安土城というイメージでしたので
実際に目にした安土山の小ささに意外な感じがしました。
信長の戦略はどんなところにあったのでしょうか?




八幡城の石垣の残る遊歩道が続きます。




村雲御所瑞龍寺門跡(日蓮宗の門が見えてきました



由緒が書かれています。




ここは切腹した関白豊臣秀次の菩提を弔うため、
1596年に秀次の生母(秀吉の姉)日秀尼(にっしゅうに 1534〜1625)が
後陽成天皇から京都村雲の地と瑞龍寺の名を賜り創建したもので、
1961年に主要建物がこの八幡山の山頂に移築されました。
日蓮宗では唯一の門跡寺院とのことです。








日秀尼は天下人秀吉の姉ではありましたが
次男秀勝は文禄の役で病死、三男秀保は急死、長男秀次は切腹、そしてその遺児の多くも刑死という
戦国女性として多くの身内の死に遭遇し、
豊臣氏の滅亡も見届けて92歳で没しています。




まだ紅葉には早かったのですが、色付き始めた木もありました。




そろそろ山を降りましょう。





《たねやとクラブハリエ》


比牟礼神社の境内にあった「たねや」
もしかしてデパートに出ている、あの和菓子のお店でしょうか。




立派な店構えです。近江八幡発祥のお店なのですね。




店内も素敵です。




「つぶら餅」を試食。中は熱々の餡子でした。




昔ながらの「おくどさん」のデイスプレイ。
釜の蓋が何ともユニークです。




素敵なお店でした。




そしてこちらはお向かいにある「クラブ・ハリエ」
「たねや」の経営する洋菓子店です。
それにしても日牟礼神社の境内に両方出店とはすごいですね。




お菓子の販売と併せてカフェもあります。




奥の別棟の方にも客席が。




ヴォーリスが設計した民家を改装した素敵なカフェ。
お庭を眺めながらのひと時です。




スコーンと




シフォンケーキを試食。
地元にも旅行者にも大変な人気店であることがよくわかりました。
美味しかったです!





《新町通り》


白壁に出格子の家が並び、つきあたりに八幡山が見えています。
こちらは江戸時代から近江商人の本宅が軒を連ねた新町通りです。

当時商家は武家に遠慮して二階建を避け、低い中二階を建てました。
瓦屋根のすぐ下の横長の窓は中二階の明かり取りと通風のためで
虫籠窓(むしこまど)と呼ばれています。
手入れの行き届いた塀越しの見越しの松が、通りに彩りと風格を与えています。
右の手前の柵は駒繋ぎと呼ばれ、商品を運搬した馬が繋がれていました。




こちらは家の外壁の足元を泥から守る犬矢来(いぬやらい)がほどこされていました。
板塀と共に古びて、味わいが出ています。




江戸時代には八幡町の一等地だった京街道新町通りの交差する角地に来ました。




左の塀の敷地には現在市立の郷土資料館歴史民俗資料館があり。
近江八幡の歴史や文化、生活用具を紹介しています。

下記の茶色の洋風建築が郷土資料館で、もとは1886年築の警察署でしたが
当地の西洋建築専門のヴォーリズ設計事務所によって1953年に改築されました。
この裏にある歴史民俗資料館は江戸時代末期の商家の建物が利用されています。





こちらは向かいに建つ旧伴家住宅です。
伴家は江戸時代初期から続く商家で、畳表や蚊帳を扱って豪商となりました。
この家は19世紀前半に7代目伴庄右衛門が本家として建てたもので
2階建さえも禁じられていた当時に堂々と建てられた中3階建は
近江商人の力を示しています。






《旧西川家住宅》(重要文化財)

こちらは旧西川家住宅です。
西川家は11代約300年続いた近江商人で
畳表蚊帳を扱って財をなし、豪商となりました。

この建物は1706年に建てられた京風建築で
主屋と店舗が公開されています。




受付の後ろの蔵をはじめ、広い敷地内に建っている3階建の蔵(3階蔵)は
西川家の隆盛を偲ばせるもので全国的にも大変珍しいものだそうです。




中に入るとお店になっています。
奥にかかっている暖簾は西川家の屋号の「大文字屋」を表しています。




入り口近くに祀ってある「三宝さん」「三宝荒神」という神様で
江戸時代にはかまどの神様となり
近江八幡の旧家ではこうして日常のかまどとは別に祀られました。




店先に置かれた帳場の机や小箪笥やそろばん。
商品の畳表や蚊帳などもありました。




台所にあった日常使いのかまどです。
「おくどさん」と呼ばれていました。




奥で使用された調度品の数々です。
大変上等な塗り物が展示されていました。




こちらも奥で使用された化粧道具や裁縫箱です。




中でも明治期に作られたこのたくさんの裁縫用の指ぬき!
色糸を使用して刺繍がほどこされた
実用品というよりも装飾品のように美しいものでした。




庭に面した奥座敷です。














《八幡小学校》


町を歩くと八幡小学校の白亜の校舎がありました。2階建ての堂々たる西洋建築にびっくり。
1917年に田中松三郎の設計により建てられたものを
ヴォーリズ建築事務所が改築したものだそうです。




バルコニーも破風も格調あるデザインでとても小学校には見えません。








《旧八幡郵便局》

大変可愛い郵便局がありました。
この建物は1921年にヴォーリズが設計したものだそうです。







当時の郵便業務の展示のほか、骨董屋も出店していました。



この郵便局を設計したアメリカ人ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880〜1964)は
22歳の時にキリスト教の外国伝道を志して
それまで学んでいた大学の建築科から哲学科に転向し、
1905年に滋賀県立商業学校の英語教師として来日しました。

その後1908年(明治41年)に京都に建築事務所を設立して
日本各地で多くのミッション系の教会、病院、学校、教会などの西洋建築を手懸けました。

一方近江八幡にはサナトリウム近江兄弟社ヴォーリス学園等を設立して
地域社会に貢献し、伝道や音楽教育も行っています。
1919年に兵庫県小野の一柳藩の子爵令嬢の満喜子と結婚し、
1941年に一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と改名し日本に帰化しました。

ヴォーリズと満喜子夫人です。

                     参考画像


今回の旅では時間の関係で、近江八幡に建てられた自宅をはじめとする多くの建物を
まわりきれず、次の機会の楽しみにしました。
サイトで見た建物はどれもこじんまりとした温かみがあるものばかりです。

またその一方では素敵な大学キャンパスの建物を数多く設計していますので
参考画像で少しご紹介します。


明治学院チャペル 1916年
ここで彼は自身の結婚式を挙げたとのことです。

                              参考画像


同志社大学啓明館 1920年

                              参考画像



西南学院大学博物館 1921年

                              参考画像


関西学院大学時計台 1929年

                              参考画像


神戸女学院大学音楽館 1933年 
2014年に重要文化財に指定されました。

                              参考画像


ヴォーリスは生涯本拠を近江八幡に置いて活動し
「青い目の近江商人」といわれました。


ー続くー